のんびりいこうよぉ

障害児の父です。障害者関連、スーパーセブンとW650、プラモデル作成、そして福岡出身なので福岡ネタが大好きなアラフィフMBAホルダー。

映画「月」をみて隠蔽について考えてみた

先日、映画「月」を見て来ました。

この映画は、2016年7月26日に神奈川県相模原市にある知的障害者施設「津久井やまゆり園」の元職員が起こした事件をもとに作られた映画と言われています。

この映画の中でよく「隠蔽」というセリフが出てきます。隠蔽とは、ある物を他の物で覆い隠す、他には見られては都合が悪い物事を隠すこという意味です。

作品を見て、私なりにこの隠蔽という言葉の使われ方を考えた時に2つのことが頭に浮かびました。

  • 分離教育により結果的に障害を持っている子供が人目に触れず隔離されている
  • 隠蔽された環境では自浄作用が働きにくい

分離教育により、結果的に障害を持っている子供が人目に触れず隔離されていることについて説明します。

まず分離教育の狙いは教育の均一化と効率化だと考えられます。

一般的に均一化に取り組むためは同じような人が集まっている方が容易です。そして効率化を図るためには非定型化されているものを定型化する事が重要です。これを学校教育に当てはめると地頭がある程度の範囲内に入った子供達を集めて教育する方が均一化を図るためには良い環境だと言えます。それ同時に一定の範囲内に入っているとイレギュラーと呼ばれるものが減るので、結果的に定型化にも取り組みやすい環境になります。

どうして均一化や効率化を目指す必要があったのでしょうか。

これは私の仮説ですが、日本は第二次世界大戦での敗戦国です。戦後焼け野原の状態から、少しでも早く復興するために成長速度を上げる必要があったと考えます。そしてその成長速度はの向上は子供の能力向上も含め色々なことの効率化に取り組まなければならなかったのだと考えます。

そうして考えられたのが分離教育だったのではないでしょうか。

そして分離教育を行うことにより、おそらく意図としては隠すつもりはないんだろうと思いますが、結果的に障害者の存在を隠していることになっているのが現状です。では、どの時点で障害者がいるという事実を世間から隠しているのでしょうか。

分離教育により結果的に障害を持っている子供が人目に触れず隔離されている

日本の教育体系について簡単に説明すると、小学校と中学校は日本に住んでいる人なら必ず受けなければならない教育です。いわゆる義務教育というやつです。

その後、個人の希望に応じ高校へ進学し、高校卒業時に就職、あるいは更に専門学校、短大、四年生大学へ進学します。そして更に学びたい人は大学院、博士課程と学ぶ意欲に応じた教育体系が構築されています。

さて、ここで質問ですが、今私が書いたことに違和感を感じる人はいますか?

多くの人は違和感を感じないと思いますが実は大間違いです。

何が間違いか。

それは、今記載したのは健常者のための教育体系だからです。

じゃ、障害者はどうなのか。

障害者は特別支援学校というところで学びます。

もちろん小学校にも特別支援学級というのはありますが、多くの人にとっての学びとは健常者の教育を指し、特別支援学級や特別支援学校での学びのことは頭の片隅にもな買ったんじゃないかと思います。

さらに質問です。

皆さんのお住まいの特別支援学校がどこにあるか知っていますか?

皆さんのお住まいの学区にある小学校や中学校がどこにあるかは知っていると思います。しかし特別支援学校がどこにあるか知っている人は、特別支援学校に子供を通わせている親御さんや特別支援学校の近くに家がある極々限られた人だと思います。

このように日本の教育体系は健常者と障害者が小学生の時から別々に学ぶことが前提で、普通学校に通っている子供たちからしたら障害者という存在を身近に感じることはありません。

インクルーシブ教育

ではなぜ、別々の学校で学ばせているのでしょうか。それは普通学校に通う生徒を一定の水準を保って教える必要がある一方で、障害を持った子供達を教える先生には障害についての知識や、その対処方法など普通学校の先生と違う専門スキルが必要になるからです。

そうした場合、小学校・中学校で教える全ての先生に対して障害に関する知識であったり対照方法を習得させる必要がありますが、これが教員育成の観点で非常に効率が悪いため、障害者と健常者を分けて教育することにしたと考えます。

もちろん他にも合理的理由があると思いますが、現状分離教育が行われているのは事実です。

そして、そのことに対して2022年に国連により障害のある子どもと、障害がない子どもを分離する教育をやめるように勧告し、すべての子どもが共に学ぶ「インクルーシブ教育」を進める必要があると指摘しました。

その背景として海外ではインクルーシブ教育という障害を持っている子どもと、健常の子供が同じ場で学ぶことが法律で決められていたりします。つまり健常の子供と、障害がある子どもは同じ場所で学ばさせることが当然の諸外国の動きと比較して、日本はその真逆のことをやっていたわけです。

海外のインクルーシブ教育の例でアメリカはどうなっているかというと、アメリカでは障害のある子どもに対しては、連邦法によって無償で適切な教育を行う場合、「最少制約環境」の条項に基づき、可能な限り障害のあ る子どもが障害のない子どもと共に教育を行うことが目指されています。このため、障害等のある子どもの95%が、「通常の学校(regular school)注 1」に就学しています。残りの5%の子ども達は、「特別な学校(special school)注2」、「寄宿施設」、「家庭・病院」、「矯正施設」等で教育を受けていま す。アメリカでは、個別教育計画(Individual Education Plan: IEP)を策定する時に、子どもが週に何時間(どの割合で)、通常の学級で過ごし、障害に 応じた特別な指導を何時間受けるのかが明記されます。

イギリスの場合は初等学校や中等学校等に特別な学級は設置されていませんが、学校によっては障害特性や特別な教育的ニーズに配慮して、 別途、ユニットを設けている場合があります。また、イギリスには、健康上の理由や行動上の問題等により学校に通学することが困難で、指導に おいて特別な配慮を要する子どもが通うための「特別受入施設(Pupil Referral Unit)」があります。つまり日本で言う特別支援学級のようなものは設ける場合があるが、基本的には同じ学校内で生活するようです。

全ての国を調べたわけではないので、これが全てと言うことではありません。

ただ日本の分離教育により、小学校の頃から健常者と障害者と交わることがなく大人になります。その弊害で大人になっても障害者への理解は進みません。そりゃそうですよね。

障害者への理解について考える

先ほど、分離教育が障害者への理解を阻害していると書きました。

そもそも障害者を理解する必要があるのか?

そういう疑問を持つ人もいるかもしれません。しかし人と人が理解し合うためには、まず相手のことを知る必要があると思います。相手のことを知らないので、相手のことを理解する。

つまり障害者に関しても小学生の時から自然と触れていると、自然と理解が進み、その結果、障害者のことを知ることに繋がります。そしてこの状態が当たり前な状態となった時には「障害者のことを理解する必要があるのか?」という疑問すら消えると思います。

なんで空気があるのか?

そんなことを考える人はいませんよね。

それと同じです。

くどいようですが、教育システムに従うことで無意識のうちに障害者のことを知る機会を多くの人が取り上げられています。

障害者のことを理解するのが難しい方へ

今後日本の教育制度で健常の子供と障害を持っている子供が同じ学校学ぶようになるには制度改革の他にもそれを運用するための設計や、どうしたら良いか実務レベルまで落とし込み、それが馴染むまでかなり長い時間を費やすことになると思います。

しかし既に分離教育を受けた我々は、普段から障害者と接する機会がありません。そういう環境で育った人に障害者のことを理解してもらうのは難しいと思います。

私も障害を持っている次男坊のことが理解できているかと聞かれると、恐らく理解できていないと思います。そのことは次男坊のことだけに限らす、健常者である長男坊のことすら理解できていると胸を張って言える状況でないからです。

人が人を理解するって本当に難しいことですよね。

なので障害者のことについて理解しなくても、まず覚えておいてもらいたいことがあります。それは標識や案内用記号などのマークです。

この駐車場でこのマークをよく見かけると思います。このマークの場所でよく見かけるのが足が不自由だという理由で止めている人です。ですが、このマークの意味は車椅子を出し入れをするために広い駐車スペースを必要としている人のため駐車してもらうためのものです。

しかし世の中には「車椅子に乗っている=足が不自由な人」と勝手に脳内変換している人がいるようです。

国土交通省総合政策局安心生活政策課作成資料、パーキングパーミット制度事例集より抜粋

他にも色々な案内用の記号がありますので、これを機にこれらの記号が意味することを知っておいていただけると嬉しいですね。

隠蔽された環境下では自浄作用が働きにくい

これは特に説明の必要はないと思いますが、パノプティコン・システムというのをご存じだろうか。これは全展望監視システムとも訳されます。

例えば貴方の日常生活を24時間、365日監視システムで撮られていると思ってください。そして、そのカメラがあなたが知らない間にダミーのカメラとすり替わっていても、そういった状況下であなたは悪い事ができますか?

あるいはマジックミラーで囲まれた部屋の中にいて、部屋の外に人がいるかも知れないし、いないかも知れない。それがわからない状況だったとして、貴方は部屋の中で裸になれますか?

恐らくたとえ誰もいなくても、万が一にも、見られているかも知れないと思ったら絶対に無理ですよね。

つまり人の目を意識する(意識させる)ことで、「見られているかもしれない」と思ったら人は悪いことができなくなります。

では、その逆で誰にも見られていない状況下ではどうでしょうか。

初めのうちは悪いことなんてしないでしょう。

しかし時間の経過とともに例えば禁煙なのにタバコを吸うなどの小さな悪いことをするようになるでしょう。だって誰にも見られていないんだし、それを咎める人もいません。

己の行動は己で律する以外の方法がないわけです。

そしてある時、己を律するためのタガが外れたらどうなるでしょう。

初めは小さな悪いことをしていたものが、気付けば、まぁまぁな悪ことをしているようになると思います。そして、そのまぁまぁ悪い事が習慣になってしまうと、もう自分自身で是正することはできません。

もしかしたら隠蔽された環境下でも、自分一人じゃなく、他の人もいるので、そういう人の目があれば悪いことができなくなるって、さっき自分で書いていたじゃないかと突っ込まれる人もいるかと思います。

ここで考慮しておかなければならないことは、人間は集団のルールに従う生き物だということです。つまり喫煙してもいいという人たちの中で、禁煙を訴えても勝ち目はありませんよね。

一方で禁煙家の集団の中で、喫煙の有意義性を訴えても禁煙家の人が喫煙家になることはありません。このことから人間は属している集団のルールから抜け出す事ができないということです。人間ひとりは決して強くありませんが、集団になった時には大きな力を発揮できます。

もっと端的にいうと、私一人では虎に勝つことはできません。しかし人間が100人集まれば虎に勝つことはできます。つまり集団に属することにより生存率が高くなるため、生き物は集団を作るわけです。そして居心地がいい集団というのは自分と似た考えを持っている人たちが多くいる集団で、逆に居心地が悪いのは自分の考えが特異な考えと受け取られる集団です。

ですので、まぁまぁ悪い事ができる集団に属することになると、そのうち自分も染まってきて、まぁまぁ悪い事ができる人になる可能性が非常にな高くなります。

その状態では周りもまぁまぁ悪いことできる人たちなので、それを是正する方向に組織が変化するかというと、ちょっと難しいんじゃないかと思います。

集団を考えるときに重要となるのはリーダーの存在です。つまりリーダーと戦って、自分がリーダーになれば、そもそもまぁまぁ悪い事ができる集団にならずにすむかも知れません。

そして隠蔽された環境下で最も重要なのは、誰かの目を意識する事だとおもます。

昔の人はご先祖様や、神様・仏様の目を意識する事で自浄作用を働かせていたりしています。

ですので、人の関心が薄まる環境下に身を置いている人ほど、誰かの目を意識する必要があると思います。

今回の映画の話であれば、行政の監査がそれに当たると思います。

 

今後インクルージョン教育が進み、健常の子供と障害を持った子供が、一緒の学舎で学ぶことにより、障害者という存在を認識し、理解を高められる構造になることを願います。

そして障害者の存在をつまびらかにすることで障害者を守る仕組みが整うことを願います。